昨夜は半年振りに日付が変わる前に床に入った。そのおかげで、今朝は八時半に起きることができ、ゆっくりと朝食を採ることができた。

 朝食を採りながら、「とくダネ」というテレビ番組を見ていたのだが、「世の中、これで大丈夫なのか?」と思うような事が盛りだくさんであった。

 殺人事件

 事故

 冤罪

 北朝鮮問題

 株価

 CD売上

 かと思えば、同じ番組内で「ベッカムJr.」の話題になっていたりする。

 一体、自分にとってどの情報が大事なのか、これだけ情報が溢れていると、その取捨選択が問題になってくると思う。

 芸能の話題が好きなら、ベッカム・藤原紀香・ビートたけし(全て今日のニュースから)の情報に食指を動かせばいいだろうし、日本の将来を憂いたいのなら、殺人事件なり事故なり株価なり、あるいは北朝鮮問題の情報を取ればいい。

 しかし、私は情報の取捨選択は全ての始まりにすぎないと思う。

 このニュースを見た。ある本を買った。それが始まりで、最終的にその情報を経験したことによって「自分がどうなれるか・どう行動するか」が問題であると思う。

 話のレベルは全然違うが、例えば、好きな子が、自分のことが好きだという情報を得たとしよう。その情報を得た場合「ふーん、あっそ」で終わるわけもなく、当然何らかの行動に出るはずである。

 話は変わるように思われるかもしれないが、つい先日気付いたことだが、日本人はテレビの中のものについて、「これ」という指示語を使う傾向がある。ドラマを見ていて、自宅にあるのと同じ茶碗が映ったとしよう。そのときに発せられる言葉は「あっ、『この』茶碗ウチのと同じだ」ではないかと思う。フェアレディZのCMを見たならば「『これ』いいなぁ」ではないだろうか。反論のある方もいらっしゃるかとは思うが、テレビの中のものについては「これ」が一般的ではないかと思われる。

 このことは「テレビによる情報が、リアルでインパクトのある」ものであり、そのため私たちは近接指示語である「これ」を使っているからだと思われる。

 しかし何故「この事件」「この株価」についてもっと身近に感じられないのだろう。「ふーん、あっそ」で終わってしまい、これからの自分の行動に反映させることが困難であるのだろう。

 それは、私たちの意識の根本に「甘え」があるからだと私は考える。「ゆとり教育」などはその「甘え」を具現化させたもので、「ガツガツと勉強(情報取得)せずに、のんびり過ごせ」というのだから、これは「甘え」「甘やかし」以外の何物でもないと思う。

 しかし、その「ゆとり教育」も様々な場面で批判されている。「甘え」の具現形たるものが批判されている中、私たちは自分の中にある「甘え」も批判することができるだろうか。「甘え」を捨て、これからの自分を考えることができるようになるだろうか。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年5月  >>
27282930123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

まだテーマがありません

この日記について

日記内を検索