伝える意思

2002年9月8日
 昨夜、ある小説投稿サイトで討論をした。

 お題は「作家が文法を気にする必要はあるか」

 討論であり、ディベートではないので、各々が自分の意見を持って話し合う。私の意見は「文法は気にすべきだし、人の作品で間違っている部分を見つけたら指摘すべきだ」であった。

 ところが、私にとっては驚きだったのだが、大半の作家志望者が「文法なんてどうでもいい。要は内容が面白いか」という意見を持っている。

 私は思う。どれだけ面白い内容の作品であったとしても、文法的におかしな部分が多々あれば、解釈がズレてくる。さらに、読んでいる最中に引っ掛かりを感じ、文を読むのが止まってしまう。

 反論。
 「勢いのある作品ならそんなことはない」

 「赤ちゃんにちゃんと言葉を喋れ、と言っても無駄なこと」

 「助詞がおかしいとか、そういう部分は、本にする場合、編集者が注意すべき点で、作家は気にすべきではない。作品世界の完成に勤しむべきだ」

 まさか、ネット作家というものが、これだけおめでたい人種だとは思わなかった。「自分が面白いと思う作品を書いている。自分が面白ければ、文法がズレていても構わない」

 自分が面白いと感じる文章を書く、というのは当たり前のことで、そんなところで胸を張られても困る。彼らに欠如しているのは「読んだ人がどう感じるか」について、考えること。

 多くのネット作家はこう言う。「自分が書いて満足できたものを他人が評価しようが、批評しようが、気にしない」

 もしも、プロの作家もこういう精神でモノを書いているのであれば、私は絶対に作家の友達はいらない。「伝えようとする精神」がないのだ。

 「自分の書いた作品は物語に気合入れてます」という連中は、文法を気にしない。「文法(文体)にエネルギー使わずに、物語にエネルギー使うから」

 物語にエネルギーを使うのは、誰でも同じではないだろうか。人と同じ次元のことをしていて、それを誇るのは間違えている。それ以上の段階、つまり、自分の書いた文章がきちんと伝わるか。この表現で、他人にこういう思いをしてもらいたい。そういう部分にまで目がいっていないのだ。

 途中で私はチャットから落ちた。いい歳して、大人になりきれていない連中ばかりだった。やたらに難しい言葉(なんかフロイトとか、そういう「読んでたら頭いいでしょ?」系の用語を使いたがる)を使って私を攻め、自分の優位性を確認せずにはいられない、そういう人が「作家志望者」である。

 モノカキやってると家にこもりがちで、やはり内に閉じこもる性格になってしまうのだろう。貴重なサーバー資源を使って、そのオタク精神を発揮しないで頂きたい。

 これは、私自身への警句でもある。

 追記

 「物語重視」の人の作品を読んだ。

 なんだ、文法的に破綻はないじゃないか。その割りに、面白いか? となると「う〜ん」であったが……

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