ダイエット奮闘記

2002年8月27日
 やっと涼しくなったと思っていたのに、またここ数日暑くなってきております。私の部屋は南向きで、直射日光がぎんぎんに照りつけるんですね。昼間は、それはもう筆舌に尽くしがたいほどの暑さになります。ただ部屋にいるだけなのに、Tシャツが汗で体に張り付く……不快極まりありません。

 さて、私はこの夏、5kgほど痩せました。別に夏バテ、というわけではないのですが、特にこれといった運動もしていないのに、体重がどんどん減っていくのです。そりゃあ、バイトのせいで毎日まともに晩御飯を食べれない、というのもありますが……毎日、塾の近くのスーパーの生鮮食品売り場で、寿司が半額になるのを待って買っているのですが、果たして寿司に栄養はあるのでしょうか。ビタミンとか、カロチンとか、決定的な栄養素に欠けている気がするので、帰宅後(深夜0時)サラダだけは食べるようにしています。

 さて、0時に帰宅した私は、それから風呂に入り、風呂から上がった後、二時ぐらいまでは本を読んでいます。一冊の本をずっと読むのではなく、色々読みまわしているという感じですが。そして、それに飽きた頃、自室に戻りパソコンを起動させるのです。

 その後、4時ごろまで執筆。なんとなく眠いな、と感じれば布団に入ります。

 起床は11時。ブランチですませ、夕方からはバイトへ。

 つまり、まともな食事は1日1食しか採っていないのです。そりゃあ、痩せるのも無理はない。

 ところが、余計な脂肪が落ちたようで、見かけはかなり健康的です。ベルトの穴も1つ小さくなりました。ええ、意識なくすほど酒飲んでるわりに。

 秋になればまた太ってくるんでしょうか。今の体重を、このままキープしたいものです。

今日の日記

2002年8月26日
 この前書いた打ち上げの件について。

 ある人がそのときの私の「醜態」を教えてくれた。

 まず、店内で思いっきり倒れたそうである。「振りかえれば奴がいる」の織田祐二の最期のように、ゆっくりと膝から崩れ落ちていく、なんてことはないらしい。何の支えもないまま、そのままバタン、と。腕のあざはこれが原因だろうと納得。

 その後、私は吐いたという記憶はないのだが、どうやら思いっきり吐いていたらしい。いや、ちゃんと便所に連れて行かれてであるが。その便所でも便器に頭を突っ込みかねない勢いでフラフラしていたらしい。

 さらに、私の肩を支えてくれていたのは、女子高生だったらしい。

 情けねー、とか思いながらも、それでも深酒を辞める事ができないのは何故だろう。いつも翌日になって頭痛と胸焼けで「神様、もう二度と飲みませんから許して下さい」と思うのに、それでも二日酔いが治ると、そんなことがあったこともすっかり忘れて飲み、そして潰れるのだ。

 人間の性なのだろうか。私のバイト先の人間は、やはり同じように毎週末潰れている。



 ええ。

 私も含めてバカですね。

衝動買いの季節

2002年8月24日
 ここ数日で一気に涼しくなった。
 
 今年も夏が終わる。そんな気配が濃厚である。

 今年の夏は北海道へ行き、海へ行き、あとはひたすらバイトだった。それなりに充実した夏であったと思う。
 
 しかし、もう八月も下旬。九月になれば本格的に秋であり、私も就職活動を始めなければいけない。

 それはともかく、秋といえば。

 読書の秋。それもある。

 食欲の秋。うんうん。

 芸術の秋。確かにそうだ。

 しかし、私にとっての秋は「物欲の秋」である。

 涼しくなった辺りから何か落ちつかない。そう、「ナニカカイタイ」病なのだ。私は二,三ヶ月に一度、だいたい二万円ほどの買い物をするのだが、だいたいデジタル機器が多い。五月にはギターの周辺機器を買ったし、七月にはADSL導入に合わせてCD-R/RWドライブも買った。次に買うのは……と考えていたら、「携帯用プレイヤー」という結論に至った。

 一応、私はMDウォークマンを一台持っている。高校二年の冬に買ったもので、もう四年間の付き合いである。現行品に比べるとスマートさに欠け、ゴツゴツした感じのデザインなのだが、現在のSONYウォークマンの傾向が「軽量化・薄化」に向かい、音質が犠牲にされているのに対し、四年前のモデルは、音質に関しては今のものより上である。

 しかし、電池の持ちが悪い。一本の充電池をMAXまで充電していても、連続で三時間は持たない。私は充電池を二本持ち歩いているのだが、大学までの往復で二本とも電池切れになってしまったことがある。

 充電池がへたってきているのも原因の一つだろうが、そろそろ私もこのMDウォークマンには飽きてきた。

 というわけで、色々と携帯プレイヤーを探していたところ、iRiverというメーカーのiMP-350、通称「SmilX」という機器を見つけた。

 このSmilXはmp3CDプレイヤーなのだ。形はポータブルCDプレイヤーと同じなのだが、mp3を記憶したCD-Rも読めるのである。mp3は通常のwavファイルを非可逆圧縮したファイルで、ファイルサイズはwavのおよそ十分の一である。ということは、一枚のCD-Rに150曲も入れられる、ということになる。

 ヨドバシドットコムで見つけ、早速購入。翌日、荷物が届いた。自分の好きな曲をCDからパソコンに取りこみ、mp3にして聴いてみた。

 音は、まあ聴けるというレベル。mp3は圧縮されたファイルゆえに、音質が犠牲になるのは仕方がない。これは我慢するとして、100曲以上を一枚のディスクに入れて持ち歩ける、というのは非常に魅力的。MD時代ならば、6枚ほど持ち歩かねばならなかったのが、たったの一枚だ。これは大きい。

 早くこれを外に連れ出したい。しかし、それはつまり大学の試験が始まることを意味する。なんだかなぁ、と思いつつ、そろそろ私も机に向かうことにする。
 昼の一時、関西テレビ(8チャンネル)で「ライオンのごきげんよう」という番組をやっている。小堺氏が司会で、ゲストは様々なお題の書かれたサイコロをふり、その出た目でその日のトークを決める、という番組だ。

 おそらく全国ネットなので知らない人はいないと思われる。「何が出るかな、何が出るかな……情けない話、略して〜(客席)なさばなー」ってのは有名だろう。

 その番組に稲川淳二が出ていた。

 そう、「怖い話」の人だ。

 そして狙ったように(というか、サイコロの面すべてが「怖い系」の話だったが)「涼しい話」の面が出る。

 淳二、張り切る。

 スタジオの照明が落ち、「怖いですよ」オーラが立ちこめる。

 そして淳二は口を開いた。

 わかんねえ。

 何言ってるのかさっぱりわかんねえ。

 あまりにも早口であるということ。それから、口の中でもごもごと喋るということ。それらの相乗効果で、本当に何を喋っているのか聞き取れない。会場も微妙な反応だ。だって、いくら「怖いオーラ」を出しても、何を喋っているのか、理解できないのだから仕方がない。

 ようやく話が終った。

 会場、反応なし。

 小堺「さあ、早く照明あげて!怖いから!」

 ナイスフォロー。

 稲川氏はいつもあの調子の喋り方だ。話を聞くのに、大変な注意力がいる。

 それは「怖い話」をする芸人である彼にとっては、「話をじっくり聞く」という点では、確かにメリットになっているかもしれない。

 しかし、聞き取りにくい話し方をするのでは、エンターテーナーとしては失格であると思う。

 早くオチが言いたい。しかし、そのオチを急ぐがゆえに、一人空回りになっているのが原因なのかもしれない。

 芸人だけに限らず、この「オチを急ぐ」というのは普通の人にも見受けられることであり、他人事として傍観している場合ではないと思う。

 
 白浜へ旅行へ行ってきた。

 本気カナヅチの私は海へ行くと毎回そこはかとなくブルーになる。今回もそれなりに悲しさの波に襲われたが、いつまでも自分の肉体的劣等感に負けているわけにはいかない。浜とブイの真中程度のところまでなんとか泳いでいった。自分の中では大きな進歩。他人に笑われようとも、私はこのことを非常に嬉しく感じた。

 さて、一泊して二日目。自殺の名所、三段壁に行った。

 もうこれで行くのは三回目になるが、何度来てもここは本当に怖い。断崖絶壁。柵も何もなし。目の前には空の青と白、海のスパークリング・ブルーが決して交わることなくどこまでも広がり、その美しさにふらふらと崖に近づこうものなら数秒後には海の藻屑となれる絶好の自殺スポット。

 崖下では波が飛沫となって砕け、潮の合間には削られて鋭利に尖った岩が見える。ここから身を投げたとすれば、まずあの岩にぶつかって全身はバラバラになるだろう。その後、潮にさらわれ、入り江の左手の方にあるエメラルドグリーンに光る洞窟へ流されていくのだろう。

 その洞窟の中へ入ることができる。崖の上からエレベーターで下に降りれるのだ。1200円。悲劇の自殺スポットももはや観光名所か。

 下の洞窟には慰霊碑やら何やらがある。そこに線香を一本焚いてやり、奥に進むと崖の上から見えたエメラルドグリーンの洞窟のすぐ横に出た。

 上から見ると穏やかそうに見えた洞窟だが、中に入るとまた全然印象が違う。底から入って来た潮は、波打ちながら回りの壁にぶつかり、水の勢いは奥に行くほど増していき、細くなった洞窟の奥で大きく爆発し、水飛沫がこちらまでかかってきた。崖から落ちた死者は、ここでも歓迎されることはないようだ。いや、死のうとする者にとっては、この救いようのない状況はむしろいいことなのかもしれないが。

 普段、「いつ死んでも構わない」と思っていても、こういう場所に来ると足がすくむ。悟りが甘いのか。

 
 昨夜の酒量。

 ビール中ジョッキ三杯(うち一杯は一気)

 いいちこ原液コップ二杯(うち一杯は一気)

 熱燗おちょこに四杯(オール一気)

 これよりも多くの量を飲んだこともある。そのときもそれなりに苦しい思いをしたものだが、今回のように店で突然倒れるようなことはしなかった。

 私が見た「泥酔の世界」を紹介しよう。

 ・目の前に立っているのが誰だか分からない。
 ・足がふらついて立てない。
 ・しゃっくりが止まらない。
 ・記憶が定かではない。
 ・時間の感覚がなくなる。
 ・場所の感覚もなくなる。
 ・立ちあがってどこかへ行かなければ、という強迫観念にとらわれる。
 ・みんなが意外と優しい。



 ・女の子は柔らかい。

ノスタルジー

2002年8月9日
 今日で塾の夏季講習が終わる。

 私はこの夏季講習が始まる一週間ほど前に、「八月一杯で辞めさせてもらいます」と上司に言った。理由は、自分がこの塾の人間(先生の方)に嫌われている、あるいは評価されていないことを肌に感じていたからだ。

 ところが、私は辞めさせてもらえなかった。

 「就職活動も始まるし、自分のやりたいことに時間を使いたい」と言ったら「就職活動でしんどくなるギリギリまで頑張ってくれないか」と請われたのである。

 しかし、私には分からない。私を認めていないのなら、嫌っているのならば、止める理由がない。かといって、「俺は本当は上司に信頼されていたんだ」などと思うこともない。

 人の気持ちは分からない。毎日のように接している上司の心情ですら私には掴めない。

 そんな私に、二週間に一度会う程度の彼女の気持ちが分かるはずも無かった。

 私は彼女と過ごした日を思い、懐かしみ、悔やみ、嘆く。今夜は打ち上げで、打ち解けない先生方と適当に杯を交わし、泥酔し、そして意識は黒く塗りつぶされていくだろう。

 今夜ばかりは馬鹿騒ぎもいいではないか。杯を交わす相手に好感を持っていなくとも、一時でも彼女への想いを忘れることができるのならば。

今日の日記

2002年8月8日
 昨夜九時半頃、私が実況パワフルプロ野球をやっていると、隣の自室から携帯電話の着信音が一瞬流れて、すぐに止まった。

 「03とかの迷惑電話だろう」と思い、しばらく放置してパワプロを続けた。

 とりあえず一段落してプレステを片付けて自室に戻り、一応携帯電話の着信を見てみた。

 生徒からだった。

 何だったんだろう、と思いこちらから電話をしてみたが、留守番電話になっていた。仕方がないので、とりあえずメールで「何の用事やったん?」と送っておいた。

 朝起きるとメールの返事が着ていた。「先生にメールしようと思ってんけど、忙しいかな、って思ったからワンコールにしておいた」

 最近の女子高生はこういう連絡の取り方をするものなんですな。

 本当に用事があるときしか電話もしないし、メールすら送らない私からすると、「元気かな?」と着信を残すというのは少々理解しがたいものである。

 ゲームが進化し、パソコンが普及し、自然がなくなっていく現代において、「人と人とを繋ぐ関係が弱まっているのでは?」と懸念されている。

 しかし、私はそうは思わない。むしろ、携帯電話やネットが普及した今の方が、人と人とを繋ぐ絆は強くなっているのではないかと思える。

 気が向けばすぐに連絡を取れる。たとえそれが遠く離れた場所にいる人であっても、メールや電話はすぐに相手をコミュニケーションを図ることができる。

 このように、人間関係の幅が広がった今、弊害も生じている。

 援助交際である。

 友達や家族との間を取り持つ情報網は、全く知らない人間とのコミュニケーションも可能にした。テレクラに電話をしなくとも、メールですぐに一夜の相手は見つかる。

 ジャンプに「世紀末リーダー伝たけし」という連載があるのをご存知だろうか。

 その作者が先日児童売春禁止法違反で逮捕された。知り合った手段は携帯電話の出会い系サイト。

 全国のジャンプファンの小学生が親に問うだろう。「お母さん、売春ってなぁに?」

 人と人との繋がりがより密なものになった情報社会。

 将来は明るいか?

今更ながら

2002年8月4日
 今、私の中で野球が熱い。

 昨日、ふと野球ゲームがしたくなって、「実況パワフルプロ野球9」を買ったのだ。

 実は私、全然野球を知らない。そりゃあルールぐらいは知っている。したこともある。しかし、プロ野球の選手の名前なんて、ほとんど知らない。ジャイアンツの野手八人さえほとんど言えないぐらいなのだ。

 そんな私が何故野球ゲームをしたくなったのかは謎だが、とにかくこれが面白い。平凡なショートゴロでも、バットにボールが当たるだけで面白い。

 このゲームには「サクセスモード」というものがあり、プレイヤーはキャラクターを高校時代の三年間操作し、最終的にドラフトでプロ野球に入団できればハッピーエンドだ。ドラフトで入団できたキャラクターは、あとで自分で操作できるようになる。

 今まで七人ほどやってみたが、そのうちプロになれたのは三人。二人はリセット。一人はドラフトで選ばれず、一人は退部(笑) 私の腕はまだまだだ。

 次は「ホームラン競争」でもやろうかな……あ、松井みっけ。わお、飛ばす飛ばす……
 

北海道旅行

2002年8月3日
 実はしばらく更新をしていなかったのには訳がある。私は北海道旅行へ出かけていたのだ。

 北海道も夏である。しかし、関西の夏とは全く違う。北海道の最高気温が関西の最低気温ぐらいである。しかも湿度が低いため、風が非常に涼しい。

 北海道は最高だと思う。移住したいところだが、冬の厳しさを考えるとやはり無理なことであると尻込みしてしまう。

 旅行の内容はおいおい書いていこうと思う。

 ああ、今年の夏はあとは夏季講習だけか……

大学なれそめ日記

2002年7月28日
 今日は家族&祖父母揃っての外食。久々に大阪に出たついでに、私は本屋を巡り、ちょこっと本を買いだめした。奈良では、自分の欲しい本がないのだ。

 今日買った五冊の本。

 「この人はなぜ自分の話ばかりするのか」

 「この人はなぜ自分の話ばかりするのか(応用編)」

 「フロイト思想のキーワード」

 「性格分析」

 「太陽の季節」

 これらの本から私の興味を推測することは易しい。最後に挙げた石原慎太郎の芥川賞の作品以外は、全て人間の内面にスポットライトを当てたものだ。

 いわゆる「心理学」とでも言うべきものだろうか。私はそういうものに興味がある。

 大学受験にあたり、進路を決める際には、まだ自分のやりたいこと、自分が打ち込めるものを見出せなかった私は、とりあえず今の学力に妥当な「経済学部」を選択した。

 「経済学部は入ってから数学がいるぞ」という脅しを高校の担任から受けたが、文系ながらも数学がそんなに苦手というほどでもない私にとっては、それは特に悩む要素ではなかった。

 なにより私が求めたのは、「ブランドとしての大学」であった。それゆえ、それほど興味の無い経済学部でも特に反発もなく私は大学に入学した。

 入学して、最初のうちは一般教養だ。自分の好きな講義を受けられる。法学、文学、物理学、幾何学、星と宇宙、心理学。様々な講義を受けたが、正直、どれにも大した興味を覚えなかった。

 そのうちに私は二年生になり、授業もいよいよ経済学が増えてきた。

 そして、ここにきて私は重大な事実を知った。

 俺って、経済学全然興味ないじゃん……

 以下次号。

それぞれの夏。

2002年7月27日
 夏がやってくる。

 泥だらけになって灰色の球を追いかける夏が、またやってくる。

 憎いほどに眩しい太陽。緑色の蔦。緊張しているのか、口を真一文字に引き結んだ坊主頭たち。

 高校球児の夏がやってくる。

 毎年熱戦が繰り広げられる全国高校野球大会。今朝テレビをつけたら天理―智弁の試合をやっていた。奈良県大会準決勝。このピッチに立てない男を、私は知っている。

 智弁の主将。妹の中学の時の同級生。

 野球選抜で高校に入った。一年生からチームで活躍を見せた。三年生になった今年、チームを引っ張っていく存在となった彼だったが、惜しくも今大会直前に骨折。試合に出るのは不可能になってしまった。

 どれほど悔しい思いをしているだろう。それは私には到底想像のつかない、どうしようもないほど絶望に違いない。

 かたや、私の妹は現在受験の天王山を迎えている。高校野球には目もくれず、参考書と睨めっこの毎日だ。

 白球を追いかけ、骨折に泣いた彼と、毎日10時間の勉強に、クーラーもつけずに挑む妹。

 夏はみなに平等に訪れ、それぞれに過ぎていく。
 
 そして道は分かれていく。悲しいほどに行く先、目指すものは様々なのだ。

 久々に中学時代の友達に連絡を取りたくなった。「なあ、お前今何してんだ? 会うことはないかもしれないけど、お互い頑張っていこうぜ!」

今日の日記

2002年7月25日
 みなさんこん○○は。四日ほど書いてみて「あ、自分って意外と批評屋なんだな」と実感したNoblegrayです。

 さて、塾の先生をしているので、生徒から何やら質問を受けることがある。それは授業に関することであったり、俺の個人的な生活に関することだったり、「どのギターがいいの?」みたいなものだったりする。

 生徒からされた質問の中でもっとも返答に困るもの。


 「先生、キスの次って何ですか?」

 乳揉み!あるいは即結合! などと言えるはずもなく、聞こえないふりをしたり、適当にボカして教室から出ていく。

 「ね〜、せんせ、あたしの彼氏ひどいねんで」

 どうでもいい。正直、本当にどうでもいい。確かに、生徒はみなかわいい。弟とか妹みたいなもんだ。だが、情事なんかは勝手に解決して欲しいし、私にそんなこと言われても困る。

 「なあ、先生。私と付き合うよ」

 これはもっと困る。笑っているのでもちろん冗談なのだろうが、ここで返答を間違えると私はものすごくノリの悪い先生、あるいはただのロリコン変態野郎と思われてしまう。これは困る。実に困る。これに返答するには、私の経験値はまだまだ足りない。

 いや、一生かかっても私はそのレベルにまで達しないであろう。

 しかし、これらの質問は、先輩に言わせればまだまだだそうである。

 先輩が受けた質問たち。

 「先生、昨日精子出てん」

 俺なんか一日三回は出てるわ! 違う! そうじゃない! いかん。これはヤバイ。私がこの質問、というか発現を受けていたら間違いなく笑いが止まらなかったであろう。中学一年生、バカである。

 「先生、宮沢りえのデルタ地帯って何ですか?」

 究極と言えるこの質問。ってかデルタ地帯って、ぉい。

 ちなみに、その先輩は「デルタ地帯が何であるか」について熱く解説をされたそうな……

私の生徒達。

2002年7月24日
 以前に書いたように、私は中学生を相手に塾で数学を教えている。

 今は夏季講習なので、ほとんど毎日授業がある。

 これが、楽しくてしょうがない。生徒達がかわいくてしょうがない。

 教えているのは中学一年生。まだまだ小学生とほとんど変わらない、小さな子供達ばっかりだ。その子達に、私はかなり厳しく、優しく接するように心がけている。

 宿題を忘れたら居残り決定。毎日小テストをして、結果が良くなければ補習。その代わり、体罰は決してしないし、相当のことでないと怒らないようにしている。

 私は、子供達にルールを教えていると思っている。決められたことは必ずこなす。答えを写すなどの不正行為は以ての外。結果が出せないのであれば、その過程から見直して、自分の弱点や苦手分野を克服するように努める。

 そういう習慣を小さい頃から付けておくと、大人になって結構便利ではないかと思うからだ。割り当てられた仕事に対する責任感と、自分への自信に繋がる。小・中学生の勉強とは、そういうものだと思っている。

 ところで、同じ塾の先生で、教育大に通っている先生がいる。彼らは将来先生になりたいそうだ。

 彼らの会話をちょっと見てみよう。

後輩「あたし、明日試験なんです。教育論について記述式でやる試験なんですよ。もう授業も寝てるし何やってるか全然分からない」

先輩「そんなんカンニングしたらええやん。俺はカンニングで切り抜けたで」

 教育論でさえ自分の言葉で話せず、努力をせずに不正行為で乗り切る。単位は取れるかもしれない。しかし、それで子供達に「教育とは何か」を伝えることができるのだろうか。

 彼らが生徒に「何で学校に来なあかんの? なんで勉強ってせなあかんの?」と訊かれたときに、どういう切り返しをするのか。ちょっと見物だ。

 だが、彼らに自分の子供は預けたいとは微塵も思わない。
 
 信念のない人間とは関わりたくない。

音楽業界への提言

2002年7月23日
 Mr.childrenのヴォーカル、桜井和寿氏が小脳梗塞のため入院。年内のMr.childrenの活動は全てキャンセルとなった。

 Mr.childrenを知らない人はほとんどいないだろう。ヒット曲を連発するモンスターグループである。

 しかし、今の日本のモンスターグループといえば、モーニング娘。を中心とするハロープロジェクトを忘れるわけにはいかない。

 正直、モーニング娘。の曲は少しも良いと思わない。それでも、シャッフルした三組のグループ(名前は失念)はいずれもオリコンラインキングのトップ10以内に入っている。私の感覚と世間の感覚には乖離がある。

 もっと言うと、前述のMr.childrenや、B’z、GLAY、宇多田ヒカル、矢井田瞳など、チャートを賑わしている連中の曲も、そんなに好きじゃない。好きじゃないというのか、「一度聴いたらそれでいいや」という気持ちになる。何度も聴こうとは思わないのだ。

 音楽はもはやただのビジネスである。各レコード会社は、「消費者が求めているもの」を考え、それに合わせた商品戦略をする。以前は、アーティスト(この呼び方嫌いなんだけどなぁ)が「おらおら、俺の歌はこんなんだぜベイビー。俺について来い!」みたいな感じだったのに、最近では「あなたのご趣味に合うように仕立てました」という空気を感じるのだ。

 ブロードバンド化とファイル交換ソフトの普及により、音楽はネット上でデジタル情報として取り扱われるようになり、家から一歩も出なくとも、最新の曲がダウンロードできる状態である。

 もちろん、この件に関しては著作権などが大きくからんでくるけれども、それでも、レコード会社にとっては死活問題である。それゆえ、消費者に媚びた商品戦略になるのは仕方ないのかもしれないが。

 ファイル交換でダウンロードした曲を聴いた感想は「音が悪い」である。mp3に圧縮されてるし、固形でない音楽を聴くのは変な感じがした。

 レコード会社様へ。本当にいい曲を出せば、CDの売上も上がるでしょう。消費者に媚びず、ぐいぐい引っ張っていけるような人材の発掘に勤しむ必要はありはしませんか?

こだわり。

2002年7月22日
 私にはこだわりとか、執着というようなものがあまりない。

 全くないというわけではないが、それでも他の人に比べると、やはり「ない」という部類に入ってしまうのだろう。

 アルバイト先の塾で、新しい白衣の配布があった。今までのものは、生徒にらくがきをされたり、汗で首筋が黒ずんでいたり、ほつれているところもあったりして、なかなかにボロボロな状態であった。

 全員がそんな状態の白衣であったから、全員分、いっぺんにまとめて買い換えたのだ。

 この白衣、塾から借りるもので、自分で買うわけではない。だが、名前を書いたり、バッヂをつけたりと、それなりのカスタマイズは許されている。背中に悪やら魔やら書いている(生徒に書かれたのかもしれないが)人もいた。

 この白衣は使いまわしで、私が使っていたものも、これで三代目の主人のようだ。胸元には、前の先生の名前が書かれ、黒マジックで消され、また書かれ、それを繰り返してようやく私の名前が下のほうに書かれてある。

 塾も三年目であるので、これにはそれなりの愛着がある、と思っていた。しかし、新しい白衣を貰ったすぐに、私はそれを丸めてポイした。

 前の白衣を自宅に持ち帰る人がほとんどで、みな、愛着を見せている。それに比べて、私のこの愛着の無さは何だろうか。

 同じ事が人間関係にも言える。私は、昔の友達にこだわらない。人間関係を丸めてポイすることはかなわないが、一年間音信不通なら携帯電話の番号ぐらいならポイする。

 過去にこだわらない。

 しかし、私は、こと恋愛感情にのみ、執着心を持つ。

 もう半年以上前に別れてしまった彼女を今でもずっと想っている。おそらく、これは執着というよりかは、自己愛に近いものではないかと、自己分析している。

 他人に自分の存在を認めてもらいたい、という感情は誰にもあるものだと思うが、私の場合、今まで自分の存在を認めてくれる人間に出会っていない。彼女は、刹那とはいえ、私のことを想ってくれていた、と思う。

 私は、自分を認めてくれる人を求めているから、今でも彼女を好きなんだと思う。

 おそらく、この先も、私は自分以外のものに大した執着を示さないまま、年老いていくだろう。

 それは悲しいことなのか。

 楽なことなのか。

 
 昨日の続きを。

 昨日の日記で「ゆとり教育はマズイのでは?」と散々喚き散らした私だが、その「マズサ」ゆえの長所もあるのではないかと考える。

 子供達へ、問題意識を植え付けることになりはしないか。

 「何だか学校はおかしいぞ」そう子供達が思うようになるだけで、十分な意味があると思う。思えば、私は、小・中・高と全く何の疑いも抱かないまま進学し、大学生になって様々な問題に直面し、「教科書に書いていること」の浅さに愕然とした。国語、社会、これらは教師の答えを押し付ける教科になってしまい、書かれてあることの裏側や本意を探ろうともしない。

 今まではそれが普通だった。しかし、「ゆとり」教育論が歪んでいることに気付いた子供達は、そういった教育法にも疑問を抱くであろう。物事の裏側を探る、そういう洞察力が生まれてくることに繋がりはしないだろうか。

 「ゆとり」は、大多数の児童の能力を押しなべて平均化するが、その中で、本当に飛びぬけた能力を持っている児童は、その能力をスポイルすることはないだろう。問題意識を持つことによって、深い洞察力が生まれるかもしれない。結局、省の進めている教育法は「能力の平均値は下がるが、最大値は変わらない」そんな印象を受ける。

「I」 is...

2002年7月20日
 私は。

 私は何なのだろう?

 「君って何?」そう訊かれて、あなたは何を答えるだろうか。とりあえず、「山田太郎です」と、名前でも言ってみるだろうか。

 今年の暮れから就職活動を始める私は、この「私は?」という問いに、できるだけ多くの答えを見出し、最終的にはそれを統合して「自分」という存在を確固たるものにしなければならない。

 ところで、文章を書く、ということは、考えをまとめる上で非常に良い作業である。また、それを他人に見せる、発表するとなると、文章にもそれなりの丁寧さ、格調高さが求められ、適当な走り書きでは済ませなくなる。自分の文章には、自分で責任を取らなければいけないのだ。

 そこで、私は「私は?」という問いを、文章の形にして、しかもそれをここに公表していこうと思う。

 「私はとんかつが好きだ」そういう内容の文章もあるだろうし、「私は、この事件をこう捉える」というような、やや堅い文章もあると思う。

 ご一緒して頂ければ、幸いである。


 私は。

 私は、塾講師である。

「所詮、アルバイトだろ?」バカにするな。給料を貰っている以上、私はプロであるという意識を常に持っている。

 それゆえに、現在、文部科学省によって進行中である「ゆとり教育」というものに、現場の人間として、声を大にして叫びたい。「ゆとり教育は間違っている」と。

 正確には「文部科学省の進めているゆとり教育」は間違っている、と言うべきだろう。ゆとりは大事です。子供にゆとりを持たせて、それぞれの個性を存分に発揮させてあげましょう。これが政策の方針であるが、省の方針は、むしろ「没個性」的社会を作る温床になりかねない。

 運動会の50m走、当然、足の速い児童が勝つ。ところが、足の速い児童がゴール前で足の遅い児童を待ち、全員揃ったところで仲良く手を繋いでゴールイン。みんな一位だワーイワーイ。

 「あなたは、一学期よりも数学の点数が10点上がりました。おめでとう。あなたには『よく頑張った』をあげましょう。え、順位はどれぐらいだって? 他人と比べた順位なんか関係ないんだよ。自分が頑張れたらいいんだ」

 実におめでたい。

 ゆとりを持つのは、確かに良い事だ。ところが、省の進める「ゆとり教育」改革を進めた結果、競争心がなく、周りと比べて、自分が何の能力に優れているのかも知らされない児童が溢れることにはならないだろうか。

 足が速いのも、数学が得意なのも個性。それらを「ゆとり」という一言で、出る杭を打つという教育論は間違ってはいないだろうか。

 また、このような環境で育てられた子供達が、大人になって社会に出たとき、その変化を許容しうるであろうか。国際化が叫ばれる現在において、彼らは国際社会で諸外国と対等に渡り合える能力を有することができるであろうか。

 甚だ疑問である。

 「ゆとり」は大事だ。日本人は働きすぎる。
ところが、その「ゆとり」を進めた結果、競争力を無くしてしまうのであれば、それには問題があると言えはしないだろうか。

 しかし、今の「ゆとり教育」にも悪いことばかりではない。それは明日、書くことにしよう。

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